OS の日本語対応

−ハードウェア的対応とソフトウェア的対応−


 ここで、すこし日本語化について触れたいと思います。OS を日本語化するためには、絶対条件として、日本語を表示できる必要があります。日本語を表示するためには、(1) 表示するためのフォントデータを管理すること、(2) フォントデータを実際に画面に描画すること、の二つの機能が必要になります。そこで (1) の部分をどうするか、ということが問題になります。オリジナルの PC/AT の仕様に従えば、PC本体に日本語フォントを納めておけば良いとなりますが、日本語の相当数に登る漢字すべてを網羅するためには、相当数の容量が必要になります。また、ハードウェアとして実装してしまうと、後々変更することが非常に困難になります。もう一つの方法として、ソフトウェアとしてフォントデータをもつ方法があります。この方法は、ソフトウェアのアップデート(フォントデータを含む)によって、いくらでもフォントを追加することができます。しかしその反面、文字の描画のたびに CPU を使う必要が生じます。今のように高速な CPU ばかりであれば、何も悩むことはないのですが、当時は 80286/12MHz が主力でした。文字描画は頻繁に繰り返される処理であるため、80286/12MHz にはかなり荷の重い作業でした。ハードウェアを使えば CPU の負荷は少ないが柔軟性がなくなり、ソフトウェアを使えば CPU の負荷が高くなってしまう、というジレンマがありました。

 実はこのころ MS-DOS という商品は世に出ていませんでした。この時点では DOS といえば、IBM が販売していた PC DOS しかなく、Microsoft は自社ブランドでの販売は行っていませんでした。日本語化するにあたって、最初に取られた方法はハードウェアによる実装でした。これは、フォントを ROM でもつだけでなく、文字描画までをハードウェアで行うことで、CPU には本来の役目に専念してもらおう、ということでした。このために作成されたのが JEDA カードであり、この規格で生産されたパソコンが AX パソコンでした。AX の名前を知っている人はかなりの古株でしょうね。なにせ、私自身 AX は見たことはあっても、使うまでには至りませんでした。

 さて、日本語化の話をする上で、避けて通れないものが一つあります。それは日本電気、いわゆる NEC の存在でした。今でこそ、PC/AT 互換機メーカーの一つでしかない NEC ですが、かつては PC-9800 シリーズによる隆盛を誇っており、当時は『PC98 にあらずんば、パソコンであらず』とまで暴言が飛び出すほど大きなシェアをもっていました。しかし、この PC9800 シリーズが、実は PC/AT 互換機を元にしていた、ということはあまり知られていないようです。NEC は PC/AT 互換機を日本語対応する時に、AX 同様に、フォントを ROM として搭載する方法を選択しました。さらに、いろいろと細かい部分で手を加えて、日本独自規格の PC9800 シリーズを完成させるにいたりました。PC9800 シリーズの基本骨格は、PC9801VM で一つの完成をみました。その後に発売された PC98 シリーズは、すべて、この VM をベースに CPU を変えてみたり、バスを追加したり、という形で生産されていました。

 さて、AX がなぜ廃れたか、みなさんはわかりますか?それは、「ソフトの存在」でした。NEC はPC9801のキラーアプリケーションをもっていました。それが一太郎です。一太郎の初代は JX-word 太郎というもので、なんと、PC98x1 と覇権を争っていた PC-100 シリーズで標準搭載されていたのです。NEC は現在の PC98 シリーズに決定する時に、この一太郎だけは残していたのでした。ある意味で、一太郎は PC98 とともに育ってきたともいえます。また、NEC は開発環境をすぐに提供し、多くのアプリケーションベンダを立ち上げさせました。これらの行動が、PC98 にパソコン市場を立ち上げさせることになりました。AX はそれにわずかだけ遅れたことが、結果的には致命傷になり、PC98 の独走を止めることがついにできませんでした。

 さて、PC/AT はもともと IBM の商品名でした。もちろん、日本 IBM でも日本語化作業を行っており、そこでも、日本語の対応でハードウェアとソフトウェアの二本立てで開発が進みました。最初に日の目をみたのは、ハードウェアによる方式でした、DOS-K と呼ばれる、日本語対応の DOS が存在していましたが、他社との互換性がないため、IBM で開発されたものしか使えないという状況であり、一時期の富士通よろしく、業務用コンピュータ(いわゆるオフコン)のダム端末(画面表示だけを行うもの。処理そのものは、オフコンで行う)として活用されることが多く、一部 IBM 文書プログラムと呼ばれたワープロソフトを使う用途もあったと思われます。

 米本国では劇的に売れた IBM PC ですが、日本国内については、決して芳しいとはいえな成績でした。当時の CPU からすれば、CPU が処理するより、専用のハードウェアの方が、処理速度が高速であったのです。かつて NEC が打った宣伝の一つに、「画面描画の高速な PC98 」 というものがありました。画面スクロールにかかる時間を計測し、PC/AT 互換機よりも早い、ということを売り文句にしていたのです。しかし、結果としてこのことが自分の首を締めることになったのでした。

 PC の利便性が高まるにつれ、そのすそ野はどんどん広がっていきました。しかし、コマンドベースの DOS は、専用の呪文(コマンド)が必要であり、とっつきにくさがあることは否めませんでした。そんなところに、恐ろしいキラーアプリケーションが登場しました。それが Windows でした。当時の Windows は MS-DOS 上で動作していましたが、アプリケーションの域を超え、OS として一面を即していました。Windows の初期バージョンこそ、あまりぱっとしませんでしたが、Windows 3.0、そして Windows 3.1 では、マウスによる軽快オペレーションもあって、爆発的な普及をみました。アプリケーションも次第に Windows 上で動作するものに移行が始まり、DOS で使いにくかったものが Windows で飛躍的に使いやすくなった、ということもその一因であっただろうと思われます。

 日本 IBM では、このころ Windows の陰に隠れていましたが、日本語化の対応を確実に勧めていました。ハードウェア実装方式から、ソフトウェアによる実装方式へ方針転換をしていました。CPU が 80286 になったとはいえ、まだまだ CPU に画面描画をさせることは、少々荷が重いことには代わりありませんでした。しかし、この状況を打破するきっかけとなったのが、皮肉にも Windows の登場でした。Windows はその複雑な仕組みのため、CPU 酷使型のアプリケーションでした。このため、Windows を使いたいユーザーは、より高速な CPU を求めていき、80286 の後継 CPU である i386 や i486 を買い求めるようになりました。

 海のむこうで i486 が登場したころ、日本国内はどうであったかというと、NEC の天下統一が、事実上成立していました。多くの場所で PC98 シリーズが用いられ、あまつさえ、NEC の互換機メーカー(EPSON)まで登場するに至りました。しかし、一部の先進的ユーザーには、海の向こう側の動きが少しずつ伝わってきていました。もちろん NEC と言えど、Windows への対応は勧めており、NEC 版 Windows 3.0 なども発売されていました。しかし、640x480 の固定解像度の画面では、各種ボタンが配置される Windows は使いにくく、普及しているとは言いがたいものでした。とはいえ、Windows への移行は確実に流れとしてあり、いくつかの優れたアプリケーションも登場しつつありました。

 そして、運命の日はやってきました。Windows 3.1 の発売です。MS-DOS の扱いにくさに辟易してたユーザーは Windows 3.1 に飛びつきました。そして、PC98 シリーズの限界を感じるようになってきました。海のむこうでは画面を3倍にも使えるらしい、画面書き換えがかなり高速らしい、といった情報が少しずつ流れて来ていたこともあり、次第に PC98 シリーズから PC/AT 互換機への移行が始まりつつありました。

 Windows 3.1 は、正式には OS ではなく、MS-DOS 用のアプリケーションになります。MS-DOS がなければ起動さえできません。このため、PC/AT 互換機でも、DOS は必要でした。この時導入されてたのが PC DOS/V 5.0 でした。この PC DOS/V 5.0 から(正確には、一つ前の v4.0 から)、ソフトウェアによる画面描画に方式を変更していました。このころ、NEC がが取った CM の一つに、『速さは力』というものがあります。画面スクロールは PC98 の方が早い、ということを売り文句にしていたのです。しかし、世は無上です。Windows 環境となると PC98 シリーズは、解像度が狭い、画面書き換えが遅い、と CM とは裏腹の結果になっていました。さらに追い打ちをかけるように、V-text が登場し、PC98 とは比較にならない高速するクロールを見せつけるようにさえなり、NEC は自社の CM によって、自らを苦しめる結果になりました。

 ハードウェアによる対応が誤りだったのか、というとそうではありません。当時としては、NEC の行った方法はやむを得ないものでした。だからこそ、AX でも似たような方式を取ったのです。しかし、いつまでもそれが正しいわけではありません。専用ハードウェアが早い時期もあれば、CPU の高速化に伴い、CPU に処理させた方が早くなる場合もあるわけです。一時的には CPU にとって過負荷であっても、わずかな時間で、その差は埋められてしまいます。いつまでも既存のやり方にしがみついていて良い、というわけではないのです。状況を読むということの重要性が良くわかる出来事といえるでしょう。